『美死』・・・こんな言葉はないのだろうか?
美しいと死、全く相反、噛み合わない感じのする言葉。今の世の中的には、
たぶんタブーなんだろうな・・・。
『死』をどのように迎えるか? ある人生の最後をどのように
締めくくるのか?
時代によって、場所によって、性別によって、ありとあらゆる
パターンを人間は各々経験してきたのだろう。
『斉藤実盛』さいとうさねもり
初めてその名を聞く方も多いのではないでしょうか?
私も、あれは確か、今から2年前の暑い8月の真夜中、
『源平合戦で幼い子の命を助けた』
そのビジョンとともに、初めて知ったのでした。
平安時代末期の武将。越前の生まれで、その後、今の埼玉県
熊谷市を本拠地とした、坂東武者、初期の関東武人として、
戦いの功績だけでなく、領内の治安維持や庄内の開拓事業、
治水、土地改良など、善政を施し、地域の住民の信頼を
得ていたという。
1155年の大蔵館の変。その当時の鎌倉の源氏の棟梁は、源義朝
(源頼朝の父)。その弟、義賢と武蔵国で争う。
当時、斉藤実盛は義朝方だったのですが、義賢の子である後の
木曾義仲をかくまい、信濃へ逃がしました。
清盛がもっとも恐れた男 源義朝/宮帯出版社
木曽義仲―「朝日将軍」と称えられた源氏の豪将 (PHP文庫)/PHP研究所
その後、平治の乱など、源氏方の坂東武者を代表する活躍をする
ものの、平清盛に破れました。
しかし、その戦いぶり、領地での善政が、敵方平氏にも認められ、
その後は、平氏の家人となりました。
1179年には、領内に、領内の繁栄と戦死者の供養を願って、日本三大
聖天宮でもある、妻沼聖天宮を建立しました。
しかし、1180年に、源頼朝が挙兵。同じく実盛が逃がした、信濃の
木曾義仲も挙兵。再び源平による戦乱が起きます。
実盛は、平家の恩に報いるため、平氏方として、かつて命を助けた
木曾義仲を追討するため、生まれ故郷の北陸へ。
しかし、源氏の勢いはとどまることなく、実盛は、生まれ故郷である
北陸の地を、自らの最後の地として、決戦に挑みました。
その時、実盛73歳。年老いた武将とあなどられないよう、赤の錦直垂に
髪は白髪を黒髪に染め、敗走一色だった、石川県加賀市篠原の地を、
孤軍奮闘、あえて名前を名乗ることなく、義仲の部下に打ち取られ
ました。
大将らしき名を名乗らない武将を、不思議に思った義仲と、部下の
樋口氏。樋口氏は実盛ではないかと、その首を池で洗ったところ、
黒髪が、みるみるうちに白髪に変わったという。
かつての命の恩人、実盛の最後の姿に、義仲は心を打たれ、
実盛を手厚く葬ったのが、今も残る、実盛塚と、実盛着用の
兜を祭った、多大神社である。
実盛の最後は、平家物語はもちろんのこと、世阿弥、芭蕉といった
文化人、歌舞伎の実盛と、今尚影響を与えています。
また、『武士道とは、死ぬことと見つけたり』葉隠で有名な
山本常朝も、『やさしき武士は、古今実盛ひとり也。』
と語っています。
葉隠入門 (新潮文庫)/新潮社
美しく生き、死ぬだけではなく、死の後も美しくという、
『美しくある』ことは、時を超え、時代を超えて
生き続けるのだなと思う次第であります。
つづく・・・。
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